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森高千里 [芸能]

平成の音楽・芸能界、とくにアイドルの世界では、小室哲哉、つんく♂、秋元康などプロデューサーが注目されることが多かった。一方で、アイドルにカテゴライズされた女性芸能人にも、自分で曲や歌詞を書いて歌うなど、プロデュースを手がける傾向が目立つようになった。最近でいえば、指原莉乃はHKT48に所属しながら、=LOVE(イコールラブ)というアイドルグループのプロデュースを手がけ、詞も提供している。あるいは、眉村ちあき(来月メジャーデビュー予定)のように自分で曲をつくって歌うだけでなく、自ら会社を設立して活動を展開している異色のアイドルもいるようです


 そうしたセルフプロデュース型のアイドルの先駆けというと、森高千里が思い出される。森高はまさに平成の初め、「私がオバさんになっても」「渡良瀬橋」「気分爽快」など自ら作詞を手がけた曲を次々とヒットさせた。1969年4月11日生まれの彼女は、きょう50歳の誕生日を迎えた。ちょうど現在、1月からスタートした全国ツアーの真っ最中である。

 筆者が初めて森高千里という歌手を知ったのは、たしか中学2年だった1990年、ラジオから「臭いものにはフタをしろ!!」という曲が流れてきたときだった。これは、男が若い女性を相手にロックについてしたり顔で語って聞かせるのを(いまでもSNSでありそうな光景だが)、皮肉交じりに歌ったコミカルな曲だ。恋愛ソングが主流だった時代にあって、その歌はあきらかに異彩を放っていた。

 森高はこの前年の1989年には、南沙織の1971年のヒット曲「17才」をカバーし、そのシングルが20万枚の売上を記録していた。同年にはまた、収録曲に「17才」を含む『非実力派宣言』という開き直りともとれるタイトルのアルバムをリリース。そのジャケットでは、スペースオペラのヒロインのような、どこか現実離れした超ミニスカートのコスチュームで美脚を惜しげもなくさらし、話題を呼んだ。とはいえ、こうした独自の路線を開拓するまで、彼女はスタッフとともに試行錯誤を重ねてきた。
デビュー後にストレスで2度の入院
 大阪に生まれ、熊本で育った森高は、1986年に「第1回ポカリスエット・イメージガールコンテスト」でグランプリを受賞。翌87年5月、シングル「NEW SEASON」で歌手デビューした。当初から、所属事務所もアーティスト路線で売り出す方針だったものの、映画やドラマに出演したり、かと思えば着ぐるみを着てバラエティ番組に出たりと、アーティストともアイドルともつかない時期がしばらく続く。どこか矛盾を感じながら活動を続けるうち、ストレスで2度も入院してしまう。この経験から、のちに彼女が詞を書いて、3枚目のオリジナルアルバム『見て』(1988年)に収録したのが「ストレス」という曲である(翌年、「ザ・ストレス」というタイトルでシングルカット)。すでに作詞には、同年の2ndアルバムの表題曲となった「ミーハー」で挑戦していた。このころの詞の書き方について、後年、彼女は次のように語っている。

《歌詞は、狙う感じはまったくなかったです。逆に狙ったらああは書けないですよ(笑い)。歌詞の書き方を何も知らずに始めたので、自分が考えたことを普段使っている言葉で詞にしていっただけなんです。でもそれが結果的に“変わってる”と周りの人が面白がってくれた。私には『臭いものにはフタをしろ!!』とか“怒りソング”がありますけど、思ったことを口に出したらまずいけど歌詞ならいいかなって書いた曲たちです。書いた時点で『あー言えた、スッキリ!』って感じでした(笑い)》(※1)

「短すぎる!」と止められたミニスカート
 これと前後して、各地でのコンサートや学園祭への出演が森高を成長させていく。デビューの約3ヵ月後、渋谷のライブハウスでの初ライブで、自分のパフォーマンスに観客が反応して盛り上がってくれる、その空間に楽しさを見出し、《私がやりたいのはライブなんだと、はっきりわかった》という(※1)。

 スタッフから「短すぎる!」と止められたというミニスカートをはじめ、コンサートやテレビで見せる派手な衣装も話題を呼んだ。本人によれば、当時はバンドブームなどがあり、《女の子でソロでやっていくには、とにかく目立たなきゃいけない。(中略)だったら衣装をハデにしよう、と。それだけの単純な理由だった》とか(※2)。そんな何気ない工夫が、ユニークな曲とあいまって、アーティストでもアイドルでもない、「森高千里というジャンル」を確立していく。

 1993年にリリースした「渡良瀬橋」はいまなお名曲といわれ、モチーフとなった栃木県足利市の渡良瀬橋には歌碑も建った。橋の架かる渡良瀬川を見つけたのは、作詞の構想を練るなか、夕日がきれいで近くに川が流れている情景が浮かんだので、響きのいい川の名前はないかと地図帳を広げたときだった。その後、何度か現地を訪れて歌のストーリーを固めていったという(※3)。

20代と変わらぬミニスカート姿
 独自のカテゴリーを切り拓いてきた森高だが、1999年に俳優の江口洋介と結婚。出産・育児のため、しばらく活動を制限することになる。音楽の世界に復帰したのは、子供たちも大きくなってきた2011年、デビュー25周年を機にライブ活動を再開したときだった。このときのライブでは、それまでの歌200曲をセルフカバーし、声を鍛えるためにもいい練習になったという(※1)。

 かつて森高は「私がオバさんになっても」(1992年)で、オバさんになったらミニスカートは無理だと歌った。しかし、49歳となっていた昨年5月、デビュー30周年のファイナル企画でコンサートを行なったときも、20代と変わらない堂々のミニスカート姿でシングル全45曲を歌い切った。そもそも彼女の歌で、人がオバさんやオジさんと呼ばれる原因は、ルックスの変化より、むしろ態度や物言いにある場合が多い。先述の「臭いものにはフタをしろ!!」でも、主人公の女の子は、相手の男が自分の考えや趣味を押しつけてくることにこそ「おじさんと呼ぶわよ」と反発していた。この曲に衝撃を受けた中学時代から30年、40歳をすぎた筆者も、あらためて自戒したい。

※1 『週刊ポスト』2017年7月21・28日号
※2 『クレア』1996年12月号
※3 小貫信昭『森高千里としか言えない』(幻冬舎)

タグ:森高千里

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